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 来たる翌日。
 待たせてはいけない。かといって早く着き過ぎるのも、待っている間にあれこれ考えてしまって無駄に緊張が増すので良くない。……という事を、俺は待ち合わせ場所にて体験型学習の真っ最中だった。
 角にパン屋『さくらだベーカリー』のある島中商店街入り口。時刻は十時十五分前。更にその何分前からここに居るかは聞いてくれるな。地に足がついている気がせず、いつも誘うように漂っている焼きたてパンの香りにさえ捕らえられない俺は、 天瀬が来るまでに本格的に実体を失くすかもしれない。いつも通りを装うための至って冴えないパーカーと綿パン、そして茶封筒だけを入れたペラペラの肩掛け鞄をここに残して――。
 そんな事を思いながら待ち続けていると、後ろから男性に声を掛けられた。
「孝史郎君! ずっとそこに立ってるけど、どしたの?」
 ショーウィンドウ越しに中から見ていたのであろうパン屋の店主、桜田さんが店の出入り口から顔を出していた。挨拶してから返事する。
「ここで、待ち合わせしてて」
「なら中においでよ。こっちからでも待ってる人が来たら見えるから」
「……はあ」
 招かれるまま店に入ると、四方の棚から溢れんばかりのパン達に包み込まれた。開店したばかりでまだ誰にも手を――いやトングをつけられておらず、この豊かな量と種類は、遅がけに来る事の多い俺の目に新しかった。
 迎えてくれた桜田さんは相変わらずの健康的な血色と肉付きの良さで、彼が手掛けたものだと思うと全てのパンが一層魅力的に見える。というより彼自身が魅力的なパンに近い気がしないでもない。福耳が柔らかそうだし、コック服の袖を肘までまくった逞しい腕なんかは、まるでかじりごたえのあるフランスパンだ。
 ……などといった珍妙な発想が出るのは、やはり今の自分が平常でないせいだろうか。
「味はおいしくできたのに、見た目がまずくて売り物にできないパンがあってさ。よかったら何個か持ってってよ。何人で待ち合わせ?」
 店の奥に向かいながら、桜田さんが尋ねてきた。
「一人、来るだけなんですけど」
 そう答えると、彼はにまりと笑った。
「なるほど? デートかな?」
「いえ! 学校の友達で、ただ買い物に……」
「あははそっかそっか、まあ君がそう言うなら、そういう事で。いま持ってくるよ」
 慌てて必要以上に強調してしまった否定は、早くから待っている姿を見られていた事もあり、真逆の意味で受け取られたようだ。桜田さんと母さんの関係が気になる俺としては、彼相手にこの手の話は余計に抵抗があった。さらりと流してもらえて、ほっとする。
 すぐにプレートを持って戻り、彼はカウンター越しにそのパン数個を見せてくれた。
「マロンクリームのパンを作りたくてイガグリの形で試作してみたけど、栗の渋みをブラックココアで表現しようとしたら、思ってたよりも焼き色が濃く出ちゃって……」
 パン生地で手間を惜しまず造形されたトゲトゲが表面を覆う、黒い毬型。俺は正直な印象を述べた。
「……栗、っていうよりも、ウニ、ですね……」
「だよねー、やっぱり。ぱっと見、怖いかなって」
 確かに、これが他の華やかで愛らしいパン達と同じ棚に並んでいたら、異彩過ぎて一瞬怯みそうではある。桜田さんはパンの一つから一口分をちぎり取り、俺に差し出した。
「これでも思った味には仕上がってるんだ。どうかな?」
 もらったそれを食べてみると、マロンクリームの甘さとココア生地の苦さの相性が良く、思いのほか好みの味だった。納得して頷き、俺は率直に告げる。
「好きです」
「何を?」
 唐突に背後から問われ、振り返る。そこに、天瀬が立っていた。飲み込みかけたパンが喉に引っかかってむせ返る。
 ……桜田さんには、出入り口にドアベルを付けるよう強く要請したい。不覚にも、告白と同じフレーズを彼女に聞かれた動揺が隠せない。秋物の赤いセーターがよく似合っているのがまた、追い討ちとなる。スカートとソックスは学校の制服と同じくらいの丈であるのに、私服というだけでどうしてこうも毎回揺さぶられてしまうのか。
「ごめん、そんなにびっくりさせちゃった? 表から孝史郎君が見えたから」
 心配して俺の背をさすろうとする彼女に、片手を挙げて大丈夫と示す。どうにか口の中のものを胃に落とし込んだ後、動悸激しい胸から自分を避難させるように、へその下まで無理矢理意識を持っていって一度息を吐き切り、吸う。
「……いや、俺もごめん。来てるのに気づかなくて」
 こんな場面で武道の呼吸法を活用し、護身の技は護心の技にもなると知る。桜田さんの温かく見守る視線がつらい。
 天瀬は俺と桜田さんの間にある例のパンを目にし、顔をほころばせた。
「わあそのパン、ウニみたいで可愛い!」
「え、かわ……?」
 彼女の『可愛いもの基準』に初めて触れる桜田さんがきょとんとなる。イソベモチ、アベカワモチ、ツクダニに続き、新たにウニが謎のリスト入りを果たしてしまった。
「これを食べてたの?」
 俺が頷くと、横から桜田さんが説明した。
「失敗作なんで、持ってってもらおうと思って試食をね。君もどう?」
 天瀬も差し出されたひとかけを食べる。
「あ! マロンクリームなんだ。……すごくおいしいのに、どの辺が失敗なんですか?」
 見た目……とは、第一声でそこをかわいいと褒めた彼女には誠に言いにくい。しかし桜田さんの次の言葉により、すぐに言う必要はなくなる。
「……そっかあ、なんか君達の感想を聞いてたら、これもアリな気がしてきたな。試しに、変わり種として店に置いてみるかな」
 人の好みは千差万別。何が受けるかはやってみなければ分からない。天瀬の、意外でもそれが素であると疑うべくもない朗らかさに押され、彼は考え直したらしい。
「それがいいですよ! これ、私も好きです」
 微笑みにのせられた、ごく自然なフレーズ。パンに嫉妬なんかしない。……断じて。
 こうしてウニ、もとい黒いイガグリパンは店の棚に陳列される事となったが、感想を聞かせてくれたお礼にと、桜田さんは俺達にそれを一個ずつくれた。二人で同じ小袋を手に下げて店を出る間際、最後に少し振り返ると、彼は俺にだけこっそりと親指を立てて見せ、笑った。
 今日の事が桜田さんづてで母さんに知れてしまうと後から根掘り葉掘り聞かれてうるさそうなので、どうか内緒にしてほしいと願う。恋する男同士。理解してくれている気はすれども確認しようのないまま、俺はそこを後にした。
 
 
 呉服屋『しょうふく』へ向かうため、天瀬と並んでしばし商店街を歩く。陽を透すアーケードは、心地良い賑わいと目当て以外の店へも寄りたくなるゆとりを、ここに留め置いてくれている。
 通りすがりに連なる軒と並ぶ品を見ながら、天瀬はふと尋ねてきた。
「孝史郎君、今日忙しい?」
「ん、いや徳永先輩の家へ行く以外には、何もないけど」 
 俺が答えると、それなら帰りにもこの商店街を通りたい、と彼女は言った。
「ここ、近いから逆にゆっくり来た事なくて。気になるお店がいくつかあるんだ。一緒に回ってもらってもいい?」
『道案内するだけ』だったミッションに、新たに『散策に付き合う』が追加される。来る前は悪いほうにばかり考えがいってしまい不安だったものの、来てしまえば後は野となれ山となれ。一度乱れた呼吸を丹田で整えた事で文字通り腹が据わったのか、今は少しでも長く一緒に居られるなら願ってもないと素直に思えた。
「ああ、分かった。付いてくよ」
 俺がそう答えた時の天瀬は本当に嬉しそうで、昔から馴染みと愛着のある商店街に興味を持ってもらえたのが俺も嬉しかった。……と後日龍彦に話したら、興味を持たれたところはそこじゃないと言われた。じゃあどこだよと聞き返したら何故か怒ってしまい、答えはもらえていない。
 商店街を途中で曲がり、一本逸れた道に入ると途端に人通りがなくなる。周囲の賑わいに救われていたのだと、それを脱がされた事により肌で感じた。腹は据わったはずだったがまだまだ鍛錬が足りておらず、二人きりである事に気まずさを覚える。会話も途切れて何か他の話題をと探していたら、道沿いの祠に差し掛かったところで、天瀬が先にそれを見つけた。
「あ、猫」
 ここの祠で丸くなって寝ている猫、といったらユキチの他にいない。おてんと様のご加護も授かって、実に幸せそうに寝入っている。真ん前まで寄っても、夢で何かを嗅いでいるのか時折ヒゲをひくつかせるだけで、俺達に気づく様子はない。
「……全然起きないね」
「そうだな……」
 ユキチの緊張感や警戒心のなさは実に猫らしからぬものだが、葦沢町の平和の象徴、と思えば微笑ましい。それよりも気になるのは、祠全体が数日前に比べて何やら豪華になっている点だった。雨風で汚れていた壁の覆い布はきれいに濯がれ、古びて欠けていた湯飲み茶碗は新調され、生けられた花はまだ瑞々しい。極め付きは今ユキチが身を沈めている、これまでにない上等なミニ座布団。その側にある空の醤油皿を見るに、おそらくこれらは魚鮮のオヤジによるものだ。長靴の百円玉に気づき、またも拾った金を返しにきたユキチを称えての事だろう。醤油皿には刺身が載せられていたと想像できる。『百円玉持ってきちゃったっス事件』の円満な収束をここにみて、頬が緩んだ。
 天瀬は寝続けるユキチをまじまじと見ている。
「前に徳永先輩が木から助けたのと、同じ子かな? 茶トラの子ってよく見かけるんだけど」
 それに間違いないのだが、『孝史郎』がその事を知っていてはおかしいので、「そうかもしれないな」としか返せない。ついでに「天瀬の家のシルビアとオリビアの父親だ」とも、言えるはずはなかった。



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