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   長靴を履いたニャンデレラ<前編>


 外は快晴。空気に冬の気配を感じるようになってきたが、席替えで移ったばかりの窓際の午後は、そこが教室でなければ絶好の猫だまりになるであろう陽だまりだった。人の身でも眠気に抗えず、丸くなる事が叶わないまま突っ伏して寝てしまったほどに。
 その時間に行われていたのは教師による授業ではなく、学級委員主導のクラス会議だったのだが、それが終了して龍彦に起こされた休み時間、俺は教卓の前で黒板に書かれている内容に呆然としていた。
 
 ――議題 文化祭の出し物について
   演劇・題目『長靴を履いた猫』
   主役 長靴を履いた猫……高峰孝史郎――。
 
 もう覚めているはずの目を何度こすってみても、配役の項目、よりにもよって主役の『猫』のところに書かれているのは、自分の名前だ。何故こんな決定がなされたのか訳が分からず、俺は横に立つ龍彦に尋ねた。
「なあ……これどういう事だ?」
「やっぱそうか、そうだよな、寝ぼけてたんだよな。お前が聞かれて承諾したんだけど」
「承諾? 俺が?」
 龍彦は納得しているが、俺は納得いかない。
「お前が『長靴の猫』役でいいかって話振られて、『いいんじゃないかな』って答えたから。ほんとにいいのかって確認されても、やっぱり『いいんじゃないかな』としか言わなくて、おかしいと思った」
 彼の言葉にはっとして、先ほど眠っていた時の夢を思い出す。それは昨日の出来事を、ほぼ反芻する内容だった。
 
 昨日の夜更け、コクミツの俺は島中字の商店街にいた。ユキチに関する、とある件を片付けるためである。彼から相談を受けたのは、夕方の定期巡回中だった。
「……これ、どうしたらいいですかね?」
 ユキチがよく昼寝している祠の陰からおずおずと咥えてきたのは、一枚の百円玉。
「お賽銭か?」
「違うんです、ここじゃなくて魚屋の前で拾ったんスよ」
 聞くところによると、それは商店街にある魚屋『魚鮮』のオヤジが客から受け取り損ねて落っことしたものらしい。通りがかりに側で跳ねた銀ピカを本能的に飛びついて捕まえたところ、突然躍り出た猫に驚いた客が大声を上げ、ユキチはそれにびっくりしてしまい――。
「……またそのまま持ってきちゃったのか」
 ユキチという名の由来は、過去、同様に飛びつき捕まえてしまった一万円札からきている。ユキチはしゅんとヒゲを垂れた。
「申し訳ないっス……」
「仕方ないな、あの時みたいに目立たない時間に返しに行くか」
 かくして俺は商店街が寝静まった頃に再度島中字へ赴き、百円玉を返すべくユキチに付き添って魚鮮の前まで来たのだった。しかし札なら差し込めたシャッター下の隙間に、厚みのある硬貨はどうにも差し込めない。かといって外に置いておいたらオヤジが見つける前に関係のない人が拾っていってしまうかもしれない。困りながらふと横を見やると、洗って乾かしてある黒いゴム長靴が目に入った。ユキチもそれに気づく。
「あっ、これオヤジさんの! この長靴に入れとくのでいいですかね?」
 と聞かれ、そこなら朝一に履いたオヤジがまず間違いなく見つけてくれるだろうと考えたので、俺は答えた。
 ――ああ、『いいんじゃないかな』――と。
 ほんとに『長靴』でいいんですかね!? この『長靴』でいいっスかね!? 『長靴』っスけど!? と何度も念を押すように聞かれて、繰り返し、『いいんじゃないかな』と……。
 
 夢と混同した自分の返事に思い当たり、俺は頭を抱えた。
「……おかしいと思ったんなら、何で止めてくれなかったんだ」
 龍彦は悪びれもせずに返す。
「いや、ふつーに適役だと思ってよ。猫だし。観たいし」
 お前な、と文句をつけようとした俺の背を、彼は軽く叩く。
「ま、いいじゃん。俺が裏方としてばっちりサポートするからよ」
 龍彦の名前は大道具のところに書かれていた。
「自分はちゃっかり役者回避してんじゃないかよ」
 そこへ、会議の内容を用紙にまとめ終えた学級委員がやって来る。
「やーありがとな孝史郎、主役が早く決まったおかげで他もトントン拍子で助かった」
 小柄な眼鏡の彼は、北路裕太(きたじ・ゆうた)。つむじの巻きが甘いのか頭のてっぺんだけ髪がひょこりと立っている事が多く、北路という苗字にも引っ掛けて、付いたあだ名は『キタロー』。覚えていないくらい昔からそう呼ばれているらしく、今や本名より愛着がある、とは本人の談。彼は会議中に俺が寝ている事に気づいて珍しいと思い、起こしがてら主役の話を振ってみたのだという。
「いや、さっきの返事なんだけど――」
 キタローは俺が言わんとする事を察し、続く言葉を遮るように俺の目の前で手を合わせた。
「すまん! なるべく覚えやすい台詞回しの台本書くから、な、頼むよ」
「でも」
「風紀委員の居眠りにも目ぇ瞑っとくからさ!」
 それを言われてしまっては、返す言葉もない。文化祭の実行委員会へ報告に行ってくる、と言い残してそそくさと去る彼の背を、俺は立ち尽くして見送るしかなかった。
 
 
   ***
 
 
 夜に出掛けた疲労と寝不足がたたり、陽だまりから受ける入眠効果が最大だった――とはいえ、大事な決め事の最中に寝てしまったのはまずかった。仕方がないので俺は決定を受け入れ、やるからには真面目に取り組もうと気持ちを切り替える事にした。
 そうして切り替えた――つもりだったが、三日が過ぎ、キタローからいざ台本を受け取るとやはり幼稚園のお遊戯でしか演技経験のない俺に主役など務まるのだろうか、という不安が膨らみ、その日は何をしていても気がそぞろになってしまっていた。
「――ねえ、高峰君。高峰くーん?」
 呼ばれているのに気づいて、読んでいた台本から慌てて顔を上げる。金曜日の放課後、風紀委員の定例会に出席するため指定の教室に来た俺は、始まるまでの待ち時間に少しでも劇の段取りと台詞を覚えようと、着席してそれを読んでいた。そこへ話し掛けてきたのは、風紀委員長の牧村先輩だった。
「何か熱心に読んでるとこ邪魔してごめん。今、話いいかな。折り入ってお願いしたい事があって」
「あ、はい何ですか」
 牧村先輩は、持っていた角形の茶封筒を俺に差し出した。
「これを、徳永君に届けてほしいの。同じ葦沢町内に住んでるし」
「徳永先輩に? 学校休んでるんですか?」
「うん、風邪ひいたみたいで昨日今日とね。中は休んでる間に配布された連絡や課題のプリントなんだけど――」
 本題はここからだった。
「――これを渡すのをきっかけにね、文化祭の日に学校へ来るよう、高峰君から彼に促してほしいの。当日の詳細も同封してるから」
「文化祭に、来るように?」
 徳永先輩が文化祭をサボる前提の話に俺が首を傾げると、牧村先輩は補足した。
「彼、去年の文化祭を無断欠席したのよね。行事ごと私も避けられちゃってるから、その話をするとあからさまに不機嫌になって、まともに聞いてもらえないの。でも最近、高峰君には気を許してるみたいだから、君の話になら耳を貸してくれるかもと思って」
 何でも、徳永先輩は牧村先輩との間で度々俺の話題を出すらしい。一体どんな内容なのか……は気になるところであるもひとまず置いておくとして、それ自体は単に俺が二人と共通の知り合いで話題にしやすいからだと思うのだが、牧村先輩曰く、人間不信気味の彼が自分から他人について語るのは本当に珍しくて、それだけでも俺に信頼を置いているのがよく分かる、と。
 徳永先輩とは身の上話をぶっちゃけ合ったので、あれ以来、互いの印象が大きく変わったのは確かだが――。
「だから、高峰君にしか頼めないの。ね、お願い!」
 此度の文化祭に関して、ためらうところに手を合わせられること二回目。自分より先輩とはいえ、一生徒が学校を無断欠席しようとする理由と向き合うのもまた、風紀委員の仕事かもしれない。風紀委員長からのたっての頼みという事もあってそう考え至り、俺は頷いた。
「……分かりました、できる範囲でやってみます」
「わあっ、ありがとう! 頼りにしてるっ!」
 身を乗り出してすがるように手を握られ、どぎまぎしてしまった。……牧村先輩を好きな龍彦がここに居なくてよかった。



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