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 俺と龍彦は徳永先輩に連れられ、交番からほど近い彼の家の前までやって来た。食堂に面した道、のれんが掛けられた引き戸の手前は、傘をかぶった街灯の電球が照らしている。戸の擦りガラスから漏れる明かりと合わさった暖かみのある光は、闇を払って人を招いているものにも思えた。
 ここで待ってろと告げて中に入り、再び戻った先輩の腕に抱えられていたのは、間違いなく俺達が探し回っていた柴犬。先輩の足の横には、あかね色のワンピースを着た妹のみゆちゃんが、ぴったりとくっついて来ていた。
「あああムサシだ、良かった……!」
 龍彦は喜びと安堵から、ムサシの頭を両手で撫でまくっていた。さんざ心配させた当のムサシはそんな事とは露知らず、寄せられた彼の顔を無邪気に舐めていた。
 徳永先輩は、犬を保護したので飼い主を探してほしい、という事を届け出るために交番へ赴いたそうだ。ただそこは過去に数回、悪い意味でお世話になっている場所らしく、自分から顔を出すのには相当抵抗があった――とは直接語られたわけではないが、道々説明する彼の終始不機嫌な口振りから、何となく伝わってきた。
 俺もほっとし、元の首輪とリードを付け終えて道に下ろされたムサシが、先輩から龍彦に託されようとするところを見ていた。ところが、みゆちゃんがぐずり出した事でそれは中断された。
「やだあ! わんちゃん行っちゃやだあ!」
 わあわあ泣くみゆちゃん。ズボンがずり落ちそうになるほど縋られて、さすがの徳永先輩も困り顔になる。開いた食堂の入り口には小学一年生と三年生の弟二人も立っていて、こちらの様子を見ていた。それを意識して片手でズボンを押さえながら、彼は俺達に話す。
「懐っこい犬だからよ、拭いて俺の部屋に入れておいたら、こいつらが気に入っちまって」
 みゆちゃん達は、ずっとムサシと遊んでいたのだという。ムサシはひとしきり喜び終えた龍彦から一度離れ、泣いているみゆちゃんの元へ寄っていった。湿った鼻でふくらはぎを突つかれると、彼女はしゃくり上げながら屈んでムサシを撫でた。弟達も戸を閉めて側へ来ると撫で始めたが、囲まれたムサシが嫌がる素振りはない。なるほど、もうすっかり気を許している。龍彦もしゃがんでその輪に入った。
「そっか、いっぱい遊んでくれてたんだな。ありがとな。この犬、ムサシっていうんだ」
「むさし?」
「ムサシ!」
「むしゃしー」
 名前を教わると、三人は口々に呼んだ。名前があるという事は、それを付けた者があり、居場所も既にあるという事。明言はなされず、しかし改めて聞く事もなく、幼い兄弟達は龍彦を交えてムサシを相手する内、各々それを理解し始める。みゆちゃんの涙も、徐々に乾いていった。
 俺は徳永先輩に尋ねる。
「そもそも、先輩はどこでムサシを見つけたんですか?」
「見つけたっつうか、急に雨に降られて、家に駆け込んで戸を閉めたら足元に居た」
 どうやらどしゃ降りの中で走る徳永先輩を見かけ、つられて一緒に駆け込んだらしい。雨が上がるより前から今まで、まさか徳永先輩の部屋にいたとは。いくら聞き回っても目撃情報が出なかったわけだ。
「兄ちゃん、雷怖くて逃げてきたよねー」
 龍彦と話しているうちにご機嫌になった上の弟、翔太(しょうた)君が何気なく暴露する。
「ば、兄ちゃ……俺はそんな事ないぞ」
 出だし、少々声が上ずっていた。
「だって帰ってきた兄ちゃん、顔青かったもん」
「それは走って来たからだろ」
「はしったら顔あかくなるよ?」
 しまいには下の弟の拓海(たくみ)君にもかわいい舌足らずで突っ込まれていた。
 どうでもいい、という先輩の締まらない締めでその話題が打ち切られた時、おとなしくお座りをしていたムサシが不意に立ち上がり、何かに向かって吠えた。皆が一斉に見たそちら側には、塀の合間から躍り出た一匹の猫の影。
「あっ、ねこ!」
「ねこちゃん!」
 小さな三人はすぐさま気づき、跳ねるようにそちらへ駆け出した。猫は俊敏だ、そうそう捕まりはしない……はずなのだが、あっさり捕まったのは、その猫がユキチだったからに他ならない。犬に吠えられた驚きで固まり、動作が遅れたのもあっただろうが、とだけは擁護しておく。朝の追いかけっこで捕まると大変なんスよーと語っていた通りの、モニュモニュの刑に処されていた。こちらも仲良くやれているようで、まあ、結構な事である。
 ユキチを見て、徳永先輩はそれを思い出した。
「あー、犬に鶏肉を茹でてやったが、大丈夫だよな?」
 龍彦にリードの先を手渡しながら尋ねる彼を見て、俺もまたそれを思い出した。件に関係しているとは考えもしなかった、鶏肉の謎についてだ。
「はい、家でもたまに、やってますから」
 犬を飼った事がない徳永先輩は、何を食べさせてよいかが分からなかったそうだ。肉を選んだのは、次の理由から。
「今日のうちの日替わり定食、鶏の照り焼きでよ。匂いがするからか犬がきゅうきゅう鼻鳴らして仕方なかったんで、新しいのを少しだけ――」
 初めから動物用にと準備して作ったものだったから、ユキチにも分けてくれたのか。納得がいき、不慣れな事にあれこれ頭を悩ませながらあちこち動いてくれたのであろう先輩を想像したらほっこりとして、その日の疲れは、空腹へと変わっていった。家の夕飯がなければその定食を食べて帰るのにとは、横で腹を鳴らしている龍彦も思ったに違いない。


   ***


 かくして随分と遠回りをしたが、無事にムサシを保護する事のできた帰り道。南西の方角には落ちた陽を追うサソリの星。華やかだった夏の星座達は日に日に西へと流れ、東にはまだこれといって目立つ光のない、ひそやかな秋の夜空がのぞいていた。
 うちのアパートの前まで来ると、俺は自転車を降りて停め、龍彦の連れているムサシの傍に身を屈めた。
「ほんと大事にならなくて良かったな。もう心配かけるんじゃないぞ。ついでに、猫にはあんまり吠えつかないでくれよな」
 撫でつつかけた言葉は伝わったのか伝わらなかったのか、ムサシは寄せた俺の顔を、やはり無邪気に舐めるばかりだった。
「考史郎もありがとな。次に鈴の湯行った時、銭湯代おごるからさ」
「ああ。帰りの牛乳も頼んだ」
 別れの挨拶に、ムサシのおつむをぽんぽんと叩いて立ち上がる。龍彦はいつものいたずらな笑みを取り戻した。
「了解、湯上がりのツクダニちゃん」
 その呼び方はやめてくれ――と思わず言いかかったが、それは曲がりなりにも天瀬が俺に付けてくれたもの。否定のし辛さに、今後しばらく悩まされるであろう事を悟る。ため息混じりに笑うしかなかった。
 そこへ自転車で帰宅してきたのは、母さんだった。今日最後になるブレーキ音と似たような甲高さで発せられた声。
「あらあ考史郎ちゃん! 龍彦君もこんなところで。今帰ったの?」
「こんばんは。今日は俺の用事に付き合ってもらってたんで、今までかかっちゃって」
 母さんにじゃれつこうとするムサシを制しながら答える龍彦に続いて、俺もかごに入れてある包みを指して言う。
「コロッケはちゃんと買えたから」
 その時、昔から俺の家庭事情をよく分かっている龍彦は、思いついた事を遠回しに提案した。
「食堂、駅から近かったよな」
「なに、食堂って?」
 俺はすぐにぴんときて、首を傾げる母さんに話してみた。
「えと、駅の近くに、知り合いの食堂があって……仕事帰りの母さんと待ち合わせて、行ってみたいなって――」
「わあ、それ夕飯の仕度が無理な時に助かる! 行きましょ行きましょ」
 自分がちゃんとした御飯を作れるようになるまでは、たまにそういう形で、母さんに楽をしてもらうのもいいだろう。
 乗り気になった母さんを満足げに見届けて、龍彦はムサシと帰っていった。敷地内の駐輪場に自転車を停め、母さんは機嫌良く鼻歌まじりにアパートの階段を昇っていく。それに付いていく途中にどこの家の夕げか、タレに漬けて焼かれたような肉の香りが漂った気がして、今晩はコロッケだけども、いつか徳永先輩の家の日替わり定食で、鶏の照り焼きの日に当たりたいと、密かに思ったのだった。


 ムサシはいずこ・終



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