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 停めてもらったところは、松原字にある家一件分ほどの空き地の前。ちょうど来たお客の応対をしつつ、おじさんは俺にまたなと手を振ってくれた。
 その空き地の奥から、塀と塀との間を抜けて出た裏側は目的のお茶専門店、『五十嵐』だ。良い茶葉をたくさん扱っている。
「これはこれは、コクミツさん」
 店をのぞくと、中にいた目当ての猫はすぐさまこちらを向いてそう言った。半分開いた引き戸の敷居をまたぎ、表へ出てくる。
「ようこそいらっしゃいました。本日もお勤め、大変お疲れ様にございます」
 かしこまって俺に挨拶したこの礼儀正しい彼は、茶屋を営むイガラシさんちの飼い猫、デガラシ。薄茶色の毛に薄緑の瞳、更に住んでいる店からして、名前の由来は推して知るべし。至って真面目な性格の、松原字の班長猫だ。
「やあデガラシ。お前も毎日接客ごくろうさん」
「ありがとうございます」
 そう話をしているところに、遠くから呼ぶ者があった。
「見つけた! コおおおクミいいツさあああああん!」
 差し迫っているのかもしれないが、地が能天気な声なので、間延びして聞こえた。デガラシと揃ってそちらを向くと、あたふたと駆けて来る、ユキチの姿があった。側へ来るなり、まくし立てる。
「ずーっと探してたんスよ! 犬を探してるコクミツさんを探してる犬を探してコクミツさんを……あれ?」
「落ち着け、ユキチ」
 彼は、ススケから件の話を聞いたという。先ほど島中字にいた時ユキチに会えなかったのだが、既に探し回ってくれていたからだったのか。俺は彼のその様子に期待して問う。
「で、ムサシの居所が分かったと?」
「いえ! それがもうさっぱりっ!」
 ……だったら何で勇んで俺を呼んだのかと、ユキチのその有り余る元気さを前にうなだれる。
「……あのう、一体何を探しておいでなのですか?」
 一匹だけ事情をのみ込めていないデガラシが、きょとんとしていた。
「ああすまない、その事でお前を訪ねて来たんだ。迷子の犬を探しているんだが――」
 俺は彼にも、ムサシの行方について知っている事がないか聞いてみた。
「そうでしたか、そんな事が。しかし申し訳ございません、私は先ほどの雨以降、表に出ておりませんので何も存じ上げず……」
 それにしても、ここまで目撃情報がないというのは妙な話だ。ムサシが町中をうろついている気配がまるでない。逃げ出して即、雨の煙の中で見つからないところに自分で隠れたか、誰かにかくまわれたか。さらわれたのでなければいいが、と不安がつのる。
 頭を悩ませていると、店内から割烹着のお婆さんがこちらへと歩み寄ってきた。
「あれまあデガラシ、お友達とおったの?」
 髪全体は白というより乳白色で、赤ぶちの眼鏡と微笑みにも品が感じられる。デガラシの家の人で、いつもこの店の番をしている。
「待っておりな、今お菓子を持ってくるよ」
 お婆さんは紐のれんをくぐって奥の部屋へ行くと、ほどなくして丸い盆を手に戻ってきた。そこに載せられているのは、猫の手サイズのちんまりとした饅頭三つ。ここの奥さんが、デガラシと訪れる猫達用に、度々手作りしてくれているものだ。熱いお茶は猫舌なので飲めないが、このお茶請けだけなら安心して頂ける。
 店の外に置いてある木の長椅子の横で、皿の饅頭を一匹一個ずつ食みながら俺達は話す。
「なんかこう、ぱっと犬を見つけるいい方法がないもんスかねえー」
「三匹で考えれば、何か浮かぶのでは。前にコクミツさんがそのような事を仰っていませんでしたか?」
「へ? ああ、あれな。ええと……そうだ、『三匹寄ればマンジュウの知恵』と言ってな――」
 言いながら、全く知恵の浮かぶ気がしなかったのはなぜだろう。
 ふと顔を上げると、ユキチは自分の饅頭が残り半分になったところで食べるのをやめていた。
「ユキチ、全部食べないのか?」
「はい、ヨツバに持って行くっス」
「相変わらず仲が良いご夫婦なのですねえ」
 デガラシが目を細くして言うと、ユキチは照れくさそうに前足で口元を拭う仕草をした。
「えへへ、僕はちょっと前にも、鶏の肉を貰って食べたんで」
「それはまた、良いものをご馳走になったんだな」
「茶毛のお兄さんが、茹でたてを分けてくれてですね。いつも有難いっス」
 彼の言う、茶毛のお兄さん。それはユキチが毎朝起こしに行っている、茶髪の徳永先輩の事だった。自分で起きられるようになってくれれば起こす必要もなくなるのだが、寝起きの悪さはそうそう治るものではないらしく、今も猫目覚ましは続けられていた。
 ヨツバに饅頭を渡したらまた犬探しをするっスよーと言い残して、ユキチは半分になった饅頭をくわえると忙しく去っていった。


 松原字まで来たものの、結局手掛かりは得られなかった。デガラシとも別れた後、堤防の道に上がって見渡す雨上がりの町は、まだらな雲とともに傾いた陽に照らされ、徐々に黄昏を迎えつつある。土手のススキをさざ波立てる風は、労力に対し成果を挙げられなかった情けない気持ちと相まって、肌寒く感じられた。
 何度も話すが、猫の身ではいかんせん移動に時間がかかる。いつも車に乗せてくれる人に出会えるとは限らないし、このままだと帰宅の時間にも遅れてしまう。猫の情報網を以ってしても何一つ分からない今、コクミツのままでいる事に利点はない。そう考えてひとまず切り上げる事を決めた俺は、ため息をひとつ落とし、とぼとぼと帰路に着く。
「こうし――じゃなかった、コクミツ」
 下の道から呼んだのは、自転車にまたがる龍彦だった。ああ助かったとばかりに、俺は疲弊から緩慢な動きで堤防の坂を下り、彼の自転車のかごに乗り込んだ。



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