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 泥まみれだった俺は、金だらいの中で今度は泡まみれになりながら、まだ呆然としていた。腕まくりをしてわしわし洗ってくれているのは天瀬。一体どうしてこうなったのか。
 その芝生の庭に、家の方からのどかな声が響いた。
「小夜子―、追加のお湯はこのくらいでいいの?」
「あー、うんありがと、お母さん」
 振り向きながら返した彼女は、再び俺の方へ向き直った。
「それにしても、おとなしい猫さんね。うちの子達はシャンプー嫌がるから、いつも大変なんだけど」
 天瀬の脇からちょいと向こうを見やると、ガラス戸の開け放された家の縁から、彼女の飼い猫アメリアが水色の瞳をきらきら輝かせながら、こちらをじっと見ていた。俺を歓迎してくれているのだろうが、それでも側へ寄って来ないのは、自分も苦手なシャンプーをされるかも、と警戒しているからだろうか。
 天瀬は先ほど母親に用意してもらったじょうろの湯を取って来ると、たらいから出した俺をそれですすいだ。艶の出た黒毛がぺたりと身に張りついている俺の様を見て、くすりと笑う。
「海苔の佃煮みたいで可愛い」
 はたしてそれは可愛いと言える物なのかと、甚だ疑問に思う。しかし彼女にとっては磯辺餅も安倍川餅も自分の家の猫に名付けようとするほど可愛いものらしいので、おそらく海苔の佃煮も同じ部類なのだろう。
 彼女はアメリア達より手がかからないらしい俺をタオルで手早く拭い、ドライヤーまでかけて丁寧に乾かしてくれた。柄にもなく良い香りのふかふかした猫に仕上がった気がする。
「はい終わりっ! 良かったあ、きれいになって」
 また唐突にひょいと持ち上げられ、赤ん坊のように『たかいたかい』をされる。陽光にかざされた俺は、相当不自然に全部の足を突っ張っていた事だろう。天瀬はそんな俺を、お構いなしにすぐ胸元へ抱き直した。
「ところで、あなたはどこの子? ここからひとりで帰れる――?」
 顔を寄せて、心配そうに尋ねられる。長い髪のひとふさがこぼれてきた。そのあまりの近さに跳ね上がった心臓のはずみで、俺は反りくり返ってその腕から逃れてしまった。少々暴れる形になったので天瀬を驚かせたが、うっかり引っ掻いてしまう事はなかったので良かった。ただ胸の早鐘は当分治まりそうにない。
 数歩の距離をとってから、そうっと振り返る。彼女は少し首を傾げながら呟いた。
「……おかまいなく、って事かな?」
 なんとなく通じたらしい。この町に住んでいると、人、猫ともに分かり合える力の身に付く何かがあるのかもしれない、とよく感じる。
 俺は動揺を取り繕って庭から失敬するべく、道に面した柵の隙間を抜けようとそちらへ向かいかける。そのタイミングで、表の道を通りがかったのは龍彦だった。あれからちゃんと着替えて髪も拭いてきたようだ。彼は庭に立つ天瀬に気づき、急遽そこで自転車を止める。
「天瀬! ちょうど良かった、ちょっと聞きたいんだけどさ、俺んとこの――」
 言いかけて、彼女と同じく庭にいる俺を目に留めると彼はぽかんとしてしまった。
「……その猫」
 龍彦が指差すと、天瀬は朗らかに返した。
「うん、この子? ツクダニちゃん」
「ツクダニちゃん?」
 ああ――天瀬の中で俺の名前は佃煮に決まってしまったようだ。せっかく乾いたヒゲがまたしおしおと下がる。
「私が道端で泥を跳ねて汚しちゃったから、今まで洗ってたんだ。どこの子か分からないんだけど、龍彦君、知ってる?」
 側に置かれている猫風呂代わりの金だらいと合わせて事情を察した彼が、ふーん、と気のない振りを装っていたずらな笑みを浮かべたのを俺は見逃さない。後でからかわれる事になりそうだと思い、耳も心なし垂れた。
「こいつは野良だよ。この町を守ってるボス猫で、コクミツって名前で通ってる」
「へえ、そうなんだ。そんな偉い猫さんだったんだね。じゃ、うちのアメリアとシルビアとオリビアもお世話になってたりするのかな」
 過去、大いにお世話した事を思い出しながらもう一度だけアメリアのいる方を見れば、いつの間にか彼女の子ども達であるシルビアとオリビアもそこに来ていた。二匹はまだ幼くて表を出歩かないため、しばらく会っていなかったが、遠目にもなかなかに成長して、座す姿に猫らしい風格を備えているのが見て取れた。まあ何よりである。
「それで、龍彦君の用事は何だった?」
 天瀬に言われ、彼は改めて尋ねた。
「ああ、うちの犬がどっか行っちまって……どっかで見かけてないか? ムサシっていう赤毛でオスの柴犬なんだけど」
「えっそうなの? 私さっき堤字から戻って来たんだけど、それらしい子は見てなくて……」
 そうか、と肩を落とす龍彦を見て、いつまでもこうしてはいられないと改める。猫背を正して、俺はすぐさまその場から駆け出した。
「あ――またねツクダニちゃん!」
 さっそうと柵から抜け出る間際、天瀬に言われてこけそうになる。どうやら黒蜜という名は、佃煮のインパクトに負けたようだ。とことん調子を狂わされながらも、俺は気を取り直してムサシの捜索を再開した。


 自転車でかっさらわれて島中字の天瀬の家まで一気に運ばれてしまったので、念のためそこまでの道のりを引き返しながら出会う猫達に聞き込みをしてみたが、結局、手がかりは見つけられなかった。仕方がないのでもっと北まで行こうと、いつもより歩き回ってさすがに疲れてきた身体を押し、広い通りへと続く角に差しかかる。するとその通りの傍に、一台の軽トラックが停車しているのに気がついた。積まれているのは黒ずんだ四角い釜。火が焚かれたそれの蓋を開けて、馴染みのおじさんは紙袋に詰めたものを客の女性に手渡していた。ああもうそんな時期に入ってくるのか、としみじみする。毎年秋の早いうちから冬の間、この町にやって来る移動販売の石焼き芋屋だ。荷台に設けられた屋根の側面、進行方向にならって書かれた『もいきや』の看板は相変わらず憎めない手書きのままである。
 駆け寄ると、タオルを首に引っかけた軍手のおじさんはすぐに俺を分かってくれた。
「おおコクミツ! 今年も焼き芋始めたぞお」
 このおじさんは俺のばあちゃんをお得意様にしていたくらい、石焼き芋屋として年季の入った人だ。ちなみに時期外れの仕事に関しては謎とされている。時々子ども達に、夏場のわらび餅屋と同じ人ではないかと突っ込まれているが、その都度、『あれはトコナッツ星に住む双子の兄弟だ』、『俺達はかわりばんこにやって来てこの町の平和を守っている』などと言い張っている。年齢も深く被るキャップのつばに隠されて不詳なところがまたミステリアス――のような、そうでもないような。
「今日はあと松原の方まで行くが、どうだ、乗ってくか?」
 それに応えて喉を鳴らすと、おじさんはそうかそうかと嬉しそうに軽トラックのドアを開けてくれた。その運転席側から飛び乗り、助手席に着く。
 町を巡回する際、俺はちょくちょくこんなふうに顔馴染みの人の車に乗せてもらう事で、移動を助けてもらっている。特に仕入れや宅配などで頻繁に決まった道を走っていて出会う頻度の高い、営業の車にはよくお世話になるのだ。花屋、米屋、建具屋、郵便屋などの他、季節によっては今日のように石焼き芋屋だったり、冬は灯油屋、夏は例の同一人物説のあるわらび餅屋だったりする。何せ小さな猫の身。葦沢町は存外広くて一匹で回るには無理も多いので、ついでだからと気前よく乗せてくれる人達にはとても感謝している。
 出発する軽トラック。再開されたBGMは車載ラジオではなく、外付けスピーカーから発せられる流行りすたりを超越した節回しの『♪いしや〜きいも〜』である。
 俺は席の端に寄り、お客の呼び止める声を聞き逃さないよう開け放された窓に、両の前足をかけた。のぞく外の景色がのんびりのんびり流れていく。
「また降りたいとこで鳴けよう。停めてやるからな」
 ムサシの姿を探しながら、俺はもう一度喉を鳴らしておじさんに返事した。



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