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 翌日、俺は夜勤明けで疲れている母さんの代わりに島中字の駅前商店街へ、夕飯の買い物に出かけた。ついでに朝ご飯のパンもねー、とさくらだベーカリーの食パンを頼まれたんだが、俺が店に顔を出したら、店長の桜田さんは笑顔で迎えてくれつつ心なし肩を落としていた。桜田さんの母さんに対する気持ちを知ってしまってからというもの、俺の心境もやっぱり複雑なままで、今日は母さんじゃなくてごめんなさいと思いながらぎくしゃくしてしまわないようレジを済ませて、俺は店を後にした。
 店内と店外の気温差にあてられて、くらくらする。空の高いところに居座る太陽の熱が、腕や首筋などの肌に刺さって痛い。今日はこの夏いちばんの暑さかもしれないな、と辟易して買ったものを自転車の籠に入れ、早々に帰るべくそれに乗ってこぎ出す。
 風の涼しさを求め、しばらくややスピードを上げて走っていたが、島中字内にある公園前の道にさしかかった際、俺は軽くブレーキをきかせた。
 この公園は以前、徳永先輩が木から降りられなくなったユキチを助けたところだ。パンを分けているところも見た事があるので、それ以来、先輩とユキチがいないだろうかとこの道を通る度に公園の様子をうかがうようになったのだが。
 透過性の黒っぽい屋根が設けられたベンチのところにいる猫と人影が目に入り、思わず公園の入り口で自転車を止める。
 その猫は、いつもどおりのユキチ。だがユキチに何かをあげている人の方は、徳永先輩ではなかった。あれは昨日ホクテンを探していた、森野さんだ。
 俺がホクテンの飼い主として森野さんを知っているのはコクミツとしてであって、考史郎としては全く面識がない。そうためらうも、しかしどうしてもホクテンとの事についてを尋ねたくなった俺は、自転車を道端に止めて公園に入り、思い切って森野さんの側まで歩み寄った。
「あの」
 声をかけると、日陰になっている木製のベンチに腰かけてユキチに煮干をあげていた彼はハッと屈めていた身を起こす。ユキチもまたこちらを見たが、懐っこい性格といえど人が増えた事に少し警戒したのか、噛んでいた煮干一匹を食べ終えると下に置かれていたもう一匹をちゃっかりくわえ、そそくさと去っていった。
「……はい?」
 不思議そうに見上げられ、行き当たりばったりで行動してしまった俺は多少言葉に詰まりながらも、話を切り出した。
「あ、ええと……。昨日の夕方、ホクテンの事を追いかけていましたよね?」
 森野さんはその名前を聞き、目を丸くした。
「君、ホクテンを知ってるのかい?」
「はい。町の人がそう呼んでいるところを、よく見かけるので」
 ああ、と伏せた微笑みに、物悲しさが入り混じる。
「……そうか。あれからも町の人達に、よくしてもらえていたんだな」
 手にしていた煮干の袋の口を輪ゴムで閉じながら、彼はそう呟いた。
「前は飼い猫だったとも聞いたので、もしかしたら、あなたがその飼い主さんかと思って……」
「そうだよ。ホクテンには、もう嫌われてしまったみたいだけど……」
 それは違う、と俺は即座に心の中で否定する。
 堤字の防波堤から道路橋と鉄道橋のある方をじっと見つめるホクテンの後姿はいつも、あの車に、あの電車に、森野さんが乗っているかもしれないと抱く淡い期待をにじませていた。
 ――ホクテンはあなたの事が好きで、帰るのをずっと待っていたんだ――。
 今この場で直接そう伝えられないのが、何とももどかしかった。
「……今まで、どうしてこの町を離れていたんですか?」
「急に転勤が決まったんだ。ホクテンも連れていきたかったんだけど、賃貸の部屋でペット禁止でないところ、というのが期日までに見つけられなくてね……。他に預けるあてもなくて」
「それで、ホクテンは置いて……?」
 森野さんは袋を横に置くとズボンのポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。屋根の影が落ちていても、半袖のシャツから出た両腕が短時間で日に焼けたように赤くなっているのがしっかり見て取れる。きっとこの炎天下の中、今日もホクテンを探し回っていたのだろう。
 眼鏡を外しながら、彼は答えた。
「ここの人達はみんな猫達に寛容だし、ホクテンにも猫同士の付き合いがあるのを知っていたから、きっと僕がいなくなってもホクテンは、ちゃんと、生きていけるだろうって――」
 言葉が、尻すぼまりに途切れる。深いため息をつくとうなだれて、ハンカチで目頭を押さえた。
「……口に出すたび恥ずかしいよ。そんなふうについ、甘えてしまったんだ――この町にさ」
 それ以上の詳しい事情についてまで突っ込んで聞く事はさすがにできないが、森野さんがホクテンを置き去った事について随分と後悔しているのは、その憔悴した様相からしてよく分かった。
 この町に、その寛容さに甘えてしまったと彼は言う。
 確かに、飼い主がいなくなってもホクテンがこの町でただ生きていく分には問題なかった。が、本当の『問題』はそんなところではない。事情がどうあれ、森野さんはホクテンの信頼を裏切ったのだ。生きる事に厳しく余計な事を考えていられない環境とは違う、この町の優しさが、かえってホクテンの心の傷を痛めさせる事もあったかもしれない。そういう仕打ちをした自覚を、今の彼はちゃんと持っているのだろう。
「ホクテンと別れてからは、夏の夜空まで辛くなっちゃって……」
 ふいと漏らされた呟きの、脈絡なく思えるその内容に俺は首を傾げた。
「どうしてですか?」
「君は、星が好きかい?」
 間を置かず聞き返され、え、と一瞬戸惑ってしまう。
「……星座とかには詳しくないですけど、何となく眺めたりするのは、普通に好きです」
 そう答えると、森野さんは陰らせていた表情を少し緩めて、俺に言った。
「良かったら今晩、松原字の展望公園においでよ。天体観測をするんだけど、やっぱり連れがいないと、寂しいからさ」


   ***


 買ったものを置きに一旦家へ帰った後、俺は龍彦の家を訪ねた。前にも言ったとおり、町の定期巡回へはやっぱり動物禁止な自宅アパートよりもここからの方が出かけやすいので、夏休み中も龍彦が家にいる日は世話になっている。
 開け放した窓の枠に腰かけ、巡回の前に天瀬からもらったベースコートというやつを塗って爪を保護するのも、すっかり習慣になってしまった。
「そういうわけで今晩天体観測に行くんだけど、龍彦も行かないか? 友達も連れてきて構わないって言ってたから」
 手を動かしながら話すと、うちわ片手に壁際で座っている龍彦は軽く肩をすくめた。
「星ねえ。それなら、俺なんかより天瀬を誘った方がいいんじゃないか? 夏の星空の下、なんて雰囲気出そうだし」
「いや、そんな夜中に女の子を表に呼び出すのはちょっと、まずいかなって……」
 恥ずかしながら、天瀬を誘う、というのは既に自分も考えていた。星空が嫌いなんて事はまずないだろうし、一緒に星を観るなんてシチュエーションにも、憧れはするのだが――。
「……ああ。ま、そりゃーそうだな」
 つい慌てたように返してしまったからだろうか。いかにももっともな建前に隠したつもりの、実はまだ誘えるほどの勇気がない、というもうひとつの情けない理由は龍彦にばればれだったようで、彼はそれだけ言って、ただにんまりと笑っていた。
 察しの良い幼馴染というのは頼もしくて有難い存在だが、こちらの事を知り尽くされている分、そう易々とはごまかされてくれない曲者でもあったりする。決まりの悪さから俺は赤くなってしまったであろう顔を、我ながら子どもみたいだと思いつつぷいとそっぽ向けた。



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