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   ホクテンの決断


 葦沢町の夏は暑い――。
 どこだって夏は大概暑いものだろうが、この町は川と海に囲まれた三角州という地形状、湿度が高めで余計に暑く体感されるのだ。天然毛皮の動物達にはちょいとばかし辛い季節である。
 今、考史郎の俺が通う高校は夏休み中。龍彦はバレー部員だから練習に出たり遠征合宿に参加したりと忙しそうだが、俺は何の部にも所属していないので、たまの登校日や風紀委員会の招集があった時以外に学校関連の用事はなく、実にのんびりとした日々を送っている。
 そんな八月の昼下がり。葦沢町の堤字にある、田畑に囲まれてぽつんと建つ空き家の縁側で、コクミツの俺は横になって身体を長く伸ばし、うたた寝をしていた。この場所は午後を過ぎると軒が日除けになり、また開けた場所で風の通りが良い事もあって、表でも案外涼しいのだ。わんわんと反響するアブラゼミの声も少し遠くて、ここで過ごしていると、夏の外れにいるような心地になる。
 畑の土の匂いを含んだ、柔い風。それに乗せて、懐かしい声が聴かれた。


 ――……ミツ、コクミツや――。

 ふるりとヒゲが揺れる。寄せた夢の波が、うつつの浜から引いていく。
 ゆっくり目を開けて、ふと頭のある側に何かの気配を感じ取った俺は、寝転がったままそちらを見やった。
「よう」
 いつの間にかそこに座っていたのは、ホクテンだった。青と琥珀のオッドアイで、目を覚ました俺を見下ろす。
「ああ――。ホクテンも涼みに来たのか」
「この時間は特に暑いからな」
 俺は話しながら身体を起こして、ひとつウンと伸びをする。
 おもむろにホクテンの横へ座り、二匹並んでしばらく何となしに広がる田畑を眺めた。田んぼに茂る稲穂はまだまだ青いが、畑の野菜達は色とりどりに育ち、たくさんのはちきれそうな実を我こそはと競うように誇らしげに見せて、収穫の時を待ちわびている。
「今、ばあちゃんの夢を見ていた」
 視線はそのままにそう話すと、ホクテンは横目に俺を見た。そしてすぐにまた前へ向き直って、その目を細める。
「――ヤエばあちゃんには、俺も随分と世話になった」
 ホクテンも俺と同じように、ここから見える畑の中に今はなきばあちゃんの面影を、見ているようだった。
 そのしんみりとした気持ちが、胸の内にあるわだかまりと、同調してしまったのだろうか。
「……お前は、最後まで大事にされていた。それにひきかえ、俺は――」
 それは日ごろ我を表す事の少ないホクテンが珍しくこぼした、愚痴だった。
「――信じて、待っているんだろう?」
 信じる、という言葉を使う事にためらいを覚えつつ、俺はそう返した。彼にとって信じ続ける事は確かに『支え』ではあるのだが、同時に今や『かせ』でもあるからだ。
「……すまない。この町には皆がいるのに、俺は贅沢を望んでいるな。今のは忘れてくれ」
 俺の惑いを誘った事に対し、それを悔いてホクテンは言った。
 皆がいる。その長を務める俺に、穏やかな眼差しを向けて。


 ――ホクテンの飼い主が突如この町から去っていってしまったのは、今から二年と少し前の事。
 ホクテンは考史郎の俺が住んでいるのと同じ小波字にある借家で、その人と暮していた。
 家を施錠する都合で、飼い主が出勤する前に出かけ、飼い主が帰宅する時間に家へ戻る、というのが当時のホクテンの生活パターンだった。しかしその日はホクテンの帰宅の方が早く、ホクテンが出入りに使っている窓はまだ開けられていなかった。残業や付き合いで飼い主の帰りが遅くなるのは度々ある事だったので、ホクテンは今日もそうだろうと思い、玄関の前で飼い主の帰宅を待っていたのだという。
 だが、日付が替わっても、朝が来ても、飼い主がそこに帰ってくる事はなかった。
 そのまま二日経ち、一週間、一ヶ月と日は淡々と巡っていった。ホクテンは毎日、誰も居ない家の周りを回っては今か今かと飼い主の帰りを待ち続けていたのだが、待ち人が現れないまま彼等の家には見知らぬ人間がちょくちょく出入りするようになり、半年程が過ぎた日には、とうとう他人が住みついてしまったのだった。
 それは前の住民がその借家を引き払っていった事実を、示していた。
 ――捨てられた。
 当時ホクテンは誰にも何も言わなかったが、その疑念は、彼を苦しめた事と思う。
 しかし、俺の知る限りホクテンは飼い主に大事にされていたはずだ。あの頃のよく手入れされた艶やかなブルーグレイの毛並みはそれを語っていたし、ホクテンも毎日欠かさず家へ帰っていたのだから、彼等の信頼関係が上手くいっていた事は間違いないだろう。だのに何故その飼い主が突然居なくなってしまったのかは、分からない。
 いつか自分のところへ戻ってきてくれる。そう信じて待つのは、大事にされていただけに飼い主が自分に対する愛情を失くしたとは思えない、思いたくないから。逆に言えばホクテンにとって待つのをやめる事は、それを認めてこれまでの飼い主との暮らしを、全て悲しい思い出に変えるという事なのだ。
 信じている限りは持ち続けられる、幸せ色の過去。それが暗いものへと変質してしまう事に怯え、そうさせてはならないという強迫めいた意識が、彼の心を縛る。支えであり、かせでもある、とした先の話はそういう訳があってのもの。
 そんなふうに二年あまりが経過してしまった現在も、ホクテンの飼い主は依然、帰らぬままなのである。


   ***


 それが唐突にやって来たのは、あきらめの念も濃くなって久しい、今年の夏だった。
 この季節、真昼に表を歩き回るのは無謀だ。アスファルトの道は肉球がヤケドしそうなほど熱いし、強すぎる直射日光で日射病になりかねない。だから町内の定期巡回も、ようやく日の傾く五時が過ぎてから出かけるようにしている。
 かくしてホクテンと縁側で話をした数日後の夕方も、俺はコクミツとして町のあちこちを巡回していた。
 年月を重ねるごとに風格を増す木造家屋の建ち並んだ、貝塚字の道。下が冷めてくるこの時間帯に多くなされる打ち水は、人より身体が路面に近い猫としては特にありがたい。見回りがてらこうして夕涼みを楽しむというのもオツで良いなと思いながら歩いていたら、同じく打たれた水の涼を含む風を味わいながらゆったりと散歩する、ホクテンに会った。
「巡回か、いつもご苦労さん」
「堤字の方は変わりないか」
「そうだな、ああ夏風邪をひいていた陶器屋のフクマルだが、その後良くなって――」
 と、話していた時。
「――ホクテン……ホクテンか!?」
 その呼び声に、ホクテンも俺もピンと耳を立ててすぐさまそちらを向いた。
「ああ、やっぱりホクテンだ! 良かった……!」
 こちらへと息急き駆けてくるのは、半袖の白いワイシャツを着た、眼鏡の青年。
 その姿を認めたホクテンの驚き具合といったらなかった。猫だからこれらのたとえはおかしいかもしれないが、まるでハリセンボンのように毛を逆立て膨らんだかと思った次の瞬間には、脱兎のごとく青年がいるのとは逆の方向へと駆け出したのだ。
「ああー! 待ってくれホクテン……!」
 思わぬ展開に動じてきょろきょろと交互に彼等を見ていた俺は、すぐ我に返って路地に消えるホクテンの後を、追っていった。


 青年を振り切って堤字に入り、道端にあるバス停のベンチの陰で、ホクテンはようやく足を止めた。
 追いついて、俺は彼に尋ねる。
「どうして逃げるんだホクテン、あれ、モリノさんじゃないか!」
 あの青年は、確かに覚えのある人だった。あれこそホクテンの飼い主、森野俊之(もりの・としゆき)さんだ。
 あれほど待ちこがれた人が帰ってきたというのに、しかしホクテンは耳もヒゲもしなりと下げて、うなだれている。
「……今さら、なんで帰って……」
「なんでって、名前を呼んでいただろう。お前のところへ戻って来たんだよ」
 様子からして、森野さんは明らかにホクテンの事を探していた。それはホクテンにも分かったはずだが――。
「気まぐれに見に来ただけで、すぐにまた居なくなるかもしれない。そんな事はもう御免だ」
 ホクテンはぱさりと切るように素っ気なく背を向けて、その場から去って行った。
 動揺が、長く待ち続ける間にこびりついたサビのような疑念を煽り、それが素直な喜びを、おさえつけてしまったのだろうか。
 遠く駆けていくホクテンの後ろ姿を見ながら、俺はそう感じた。



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