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 学校が明けた後に家で着替えを済ませてから、俺と龍彦は島中字を訪れた。島中字はJRと私鉄の駅を置いていて、横断する線路を境に北側は商業、南側は住宅をそれぞれ主とする土地柄になっている。俺達が今いるのはその住宅街側だ。
 オレンジ色の屋根をした家の前で立ち止まり、隣の龍彦に確認する。
「ここだったよな」
「おう」
 そこは以前にアメリアを探していた時に来て偶然知った、天瀬の家。
「やっぱり、俺は来ない方が良かったんじゃないか? チャンスだろ、何かと」
「いや……ここで妙な気遣われるとかえって困る。頼むから一緒にいてくれ」
 まあ、俺は天瀬の事が好きなわけで、それを知っている龍彦は俺の邪魔になってしまう事を、懸念していた。でも告白するわけじゃあるまいし、いきなり二人きりにされてもどうしていいかわからずものすごく挙動不審になりそうなので、適当な理由をつけてふけようとした龍彦を、俺はどうにか引っぱって来たのだった。
 傘を差すのとは反対の手で胸に抱えているビニール袋には、銘菓『肉球饅頭』の折りが入っている。去年の冬、路上で気絶していた俺を助けてくれたのは天瀬なので、この機会にちゃんとしたお礼をしようと思い、道中の和菓子屋で買ってきたのだ。
 余談を挟むと、和菓子はどちらかといえばこうやって手土産にしたり、もてなしの茶請けにしたりして人に贈るものだと思うんだが、この肉球饅頭が大のお気に入りな俺の母さんは時々仕事帰りに買ってきて、自分で食べている。葦沢町には町内で買い物をすると百円ごとに一点一円相当のポイントをもらえる地元協同組合発行『あしざわくんカード』があり、甘くて疲れがとれる上にカードにポイントが溜まるなんて素敵よねー、とか言いながら饅頭を頬張って庶民のささやかな幸福を味わう母さんは、本当に嬉しそうだ。その向かいで、実は俺も一緒に食べていたりするんだけど。俺は甘いものをあまり好まない方だが、母さんのその顔を見ながら食べるこの饅頭は、別格で好きなんだ。
 そんな菓子の折りと傘とで手が塞がっている俺に代わって、龍彦がインターフォンを鳴らす。
 はーい、という返事はインターフォン越しではなく、玄関から直接聞こえてきた。すぐに扉が開けられ、中から天瀬が姿を出す。
 ……やっぱり、見慣れた制服とは違う印象の私服姿にはどきどきしてしまう。女物の服についてはよくわからないが、風に柔らかそうな丈の長いスカートと無地の白いブラウスが、光の輪をつくる黒髪とあいまって彼女の清純な印象を一層深めていた。更にそこへ微笑みを添えて、彼女は俺達を迎える。
「いらっしゃい。来てくれてありがと、どうぞ上がって」
 軽く挨拶を返しながら、龍彦はまた固まりかけた俺の背をさり気なく叩きそれを防いでくれた。
 ……良き幼馴染の存在に、俺は心底感謝した。


 家に上がると、彼女の母親にも出迎えられる。天瀬が時々話に出すそうで、俺と龍彦の事は前々から知ってくれているようだった。その話の内容まではわからないが、歓迎のされ方からして悪いものではないんだろう、と俺は少し安心する。
 去年のお礼を述べて菓子折りを手渡した後、俺達は二階にある天瀬の部屋へ通された。猫達を連れてくるから待っててね、と彼女が出て行ってしまったので、ガラス天板の小さなテーブルを囲って腰を下ろした俺と龍彦は、しばし所在なく部屋を見回す。水色と白を基調にすっきりとまとめられた中にある、控え目に配置されたぬいぐるみやインテリア小物、室内の装飾も兼ねて壁のコルクボードにかけられたアクセサリー類が、ここを女の子の部屋だと実感させる。
「……どうも落ち着かないな」
 馴染みの薄い空間が何だかこそばゆくて、俺は頭を掻く。
「まー部屋の空気は男の溶け込む余地がない感じだな。でも、天瀬自体はどうなんだろ。今んとこ、好きな奴とかいないのかな」
「え……好きな……?」
 言われて、俺は初めて気づく。天瀬に好きだったり付き合ってたりする人がいるかどうかなんて、これまで考えた事がなかったと。
 俺が彼女を好きなように、彼女が誰かに想いを寄せている可能性は、大いにあるわけで。
 動揺というものは、その大きさをなかなか自覚できなかったりする。気がつけば俺はテーブルに出されていたグラスのジュースを、がぶ飲んでいた。
「例えば……今日話してた、徳永先輩とか」
 龍彦の発言に、俺はそのジュースを噴きそうになる。
「……と、徳永先輩を……天瀬が?」
「んー、でもそれよか、可能性としては逆のパターンの方が高いかもな。色恋に疎いお前が好きになったくらいなんだしよ、徳永先輩に限らず、天瀬の事を狙ってる奴はわりといるんじゃないか?」
 確かに、天瀬のあのガード緩めな懐っこさに心くすぐられてしまうのは、俺だけじゃないかもしれない。その上、見た目も十分可愛いとくれば――。
「お待たせ! 猫連れてきたよ」
 そのような考えに囚われて階段を上ってくる音にも気づけなかった俺は、戻ってきた天瀬に驚き身を跳ねてしまう。危うくグラスを落っことしそうになった様を見て、子猫二匹を腕に抱いた彼女は首を傾げた。
「……どうかしたの?」
「……いや……ごめん何でもない。うん、何でもないんだ」
 自分に言い聞かせるのも兼ねた返事をして、俺はグラスをテーブルに戻した。
 そう? と疑問を残しつつ、でもすぐにそれを笑顔で流して彼女はその場に座る。子猫達を膝に乗せて俺達に見せ、紹介した。
「こっちの白が『シルビア』、茶トラの方が『オリビア』だよ」
 名前は、前に学校でも聞いていた。俺達は天瀬と子猫達がいる方へと少し身体を移動させる。
 龍彦は犬を飼っているが猫も好きなので、白とトラのいとけない毛玉達に頬を緩めた。
「二匹ともメスだっけか」
「うん、そうだよ」
「親猫のアメリアは?」
 俺が尋ねると、天瀬は開け放してある扉の方を振り向いた。
「そこにいるよ。アメリア、おいで」
 天瀬が呼び、俺達が出入り口の陰に注目すると、そこから猫の顔がちらりとのぞく。シャムっぽい茶毛の入ったその白猫は、確かにアメリアだ。
「人見知りする子だから、部屋に入って来られないみたい」
 アメリアは初めて会う俺達に警戒しつつ、中にいる子猫達を心配しているようだった。コクミツとしてなら初対面ではないんだが、今の俺は考史郎なので仕方がない。
 でも天瀬に促されるとやがて忍ぶように部屋へ入ってきて、隅っこにちんまりと座した。結局この時から最後まで、アメリアはその場を動かずに俺達の様子をじっと見守っていた。
 アメリアにシルビアにオリビアか、と頭の中で名前を連ねる。
「親子揃って洋風な名前だよな。天瀬がつけたのか?」
「ううん、全部洋画の好きなお父さんがつけた名前なんだ。私が考えた名前は、家族会儀で却下されちゃって」
 ちなみに天瀬の家族は、彼女と両親と祖父母の五人。去年の冬、一足先に祖父母がここへ越してきて、天瀬は中学校を卒業するまで前の土地に両親と留まっていたのだという。俺を助けてくれたあの日曜日については、引越しの荷物整理をするために休みを利用して、前日から泊まりがけでたまたまこっちへ来ていたとの事だ。それで朝方、新しく暮らす町の散策に出かけたら俺が道に倒れているのを見つけた……と、そういう事らしい。
「天瀬は、どんな名前にしたかったんだ?」
 天瀬はシルビアを抱き上げて手の中で仰向けにし、ミルクと離乳食で満たされた柔らかそうなおなかを指差した。
「ほら、子猫のおなかってぽっこりしてて、なんだかお餅みたいでしょ? それで白の方は茶色のポイントがおこげっぽく見えるから、『イソベモチ』。茶トラはきなこをまぶした色に似てるから、『アベカワモチ』」
 ……彼女の意外にも微妙なネーミングセンスに、俺と龍彦は思わず閉口してしまう。
「ぴったりの可愛い名前だと思うんだけど、何でだめだったのかなあ」
「……ああ、なんでだろうな……」
 それについてコメントしなければならない状況になるのをかわすように、俺達は子猫に視線を逃がした。先程からじっとしていられない様子だった二匹は彼女の膝からへっぴり腰で降り、敷かれたラグの上をてこてこと歩き始める。
「こっち来るか?」
 片手を差し出し、近くに来た茶トラのオリビアを呼んでみる。まだ警戒心が薄く好奇心旺盛なオリビアはすぐに寄ってきて、俺の指先にツンとピンクの鼻をつけて匂いを嗅いだ。
 少しじゃれつかせて遊んでから、そっと手に抱いた。
 田んぼの端で見つけた時分はまだ産まれてから間もなくて、猫の子か犬の子かもぐらの子か、と判別に迷うような頼りない見目だったが、今はもう耳もヒゲもしゃんとし、目もぱっちりと開いていっぱしの猫の姿を呈している。成猫に比べれば大きさはまだまだだが、俺はあの時の事を思い出して成長したな、と感慨した。
 後から龍彦に聞いた話、この時の俺はいつになく幸せそうな顔をしていたらしい。更にその俺を、天瀬がとても嬉しそうに見ていたというんだが。
 ……俺が笑ってるとこ、そんなに珍しかったんだろうか?
「……あれ?」
 天瀬が、何かに気づいたような声を上げた。
「考史郎君、爪の先が割れてる」
 彼女は子猫を抱いている俺の手を見ていた。
「ん……ああ、裸足で歩くからかな……」
 言葉を発してからそれが猫の自分とごっちゃにしてしまった失言と気づくまでのタイムラグに、疑問符を浮かべたのは天瀬。慌てたのは龍彦。
「……裸足? そうじゃなくて手の爪の話をしてるんだけど……」
「――あ」
「いや! こいつ前に空手やってたからさ、今も体力維持のために、時々河川敷で一人稽古してたりするんだ、裸足でよ」
 手と足は勘違いしたんだろ、と龍彦は俺に振る。
「……ああ、まあ、そうなんだ」
 いささか強引なごまかしだが、内容に嘘はなかった。実際、俺は小さい頃より身に染みついた習慣から身体を動かしたくなると、河川敷でひっそり稽古している。
「へえー、意外。考史郎君って細いから、格闘技のイメージはなかったな。でも、前にやってたって事は、今はもう続けてないの?」
「ああ。二年くらい前に怪我して、そのままやめたんだ」
 やめた具体的な理由については、今はあまり口にしたくなかったので濁した。天瀬は何となく察してくれたようで、それ以上突っ込まれる事はなかった。
「あ! そうだ、ちょうどいいものがあるよ」
 不意に思いついたらしい天瀬は部屋の奥にあるドレッサーまで行き、そこから何かを取り出した。
 戻ってきて元のように座った彼女が俺に差し出したのは、二つの小瓶。瓶も中の液体も透明だが、俺にはそれが何だかわからない。
「これ、ネイルカラーの前に塗るベースコートなんだけど、爪の保護になるから使ってみて。こっちはそれを落とす除光液」
「え……マニキュア?」
 またも馴染みのないものに戸惑いつつ、俺はオリビアを一旦床に下ろしてそれらを受け取る。
「それで爪が割れにくくなるといいんだけど。使いかけのでごめんね」
「……でも、男の自分がこれ使うのはちょっと抵抗あるな……」
「それは透明だから塗ってても目立たないし、男の人だって爪の保護にこういうの使っても全然おかしくないよ。徳永先輩みたいに、今は色をつけちゃう人もいるくらいだから」
 また妙なところで思いがけず徳永先輩の名前が出たので、俺と、それまでオモチャの猫じゃらしでシルビアと楽しく遊んでいた龍彦は揃って目をぱちくりさせた。
「……徳永先輩って、マニキュア塗ってたっけ? あんまり覚えがないけど」
「気分で時々するんだって。全部の指じゃなくて片手の一、二本だけにちょっと塗って、アクセントにしてるみたい」
「……へえ……」
 俺は適宜に身奇麗を保っていればいいという感覚で装いには頓着しない方だから、今時のおしゃれはよくわからないな、と実に老けた事を思う。しかし正直、先輩のネイル話よりもそういう雑談ができるくらい二人は親しい間柄、という事実の方が気になってしまった。そんな小さな自分にちょっと幻滅していると、同じ事を思ったらしい龍彦が天瀬に直接それを聞いた。
「徳永先輩とは、よく話すのか?」
「んー、よくってわけじゃないけど、夕方にこの近くの公園で、妹のみゆちゃんといるのを見かける事があってね。のんびり話をするのは、大体その時なんだ」
 続いた天瀬の話では、みゆちゃんという先輩の妹はまだ小さくて、今は幼稚園に通っているそうだ。しかも更に小学生の弟が二人いて、先輩は四人兄弟の長男、という事になるらしい。
 それを聞いて俺はひょっとしたら、と考える。先輩が毎朝遅い登校をしてくる理由は、幼い兄弟達の面倒を見なければならないとか、そうした家庭のやむを得ない事情が関係しているんじゃないだろうかと。
「……夕方に小さな妹さんを連れてこの近くにいるって事は、もしかして先輩も、葦沢町に住んでるのか?」
「うん、うちと同じ島中字で、線路の向こう側だって言ってたよ」
「……そっか……」


   ***


 天瀬の家をおいとました後、俺達は龍彦の家に戻った。
 雨が途切れたので龍彦の部屋で俺は窓を開け、その枠に腰かけて先ほど天瀬がくれた液を爪に塗り始めた。まあせっかくもらったものだし、ちょうどこれから猫になって町の巡回にも出かけるしな。猫の時、爪は大抵しまっているが、塀や木をかけ登る時に使ったりアスファルトを歩き回ったりすると、やっぱり傷めてしまうような気がするんだ。
 しかし、やってみるとなかなかにしち面倒くさい作業だ。徳永先輩について牧村先輩はがさつだと言っていたけど、こんなマメな事ができる一面もあるんだな、と地味に感心する。
「……明日にでも、徳永先輩の様子を探ってみようと思うんだ」
 壁にもたれて座っている龍彦に言う。
 人を、外観やうわさだけで判断してはけない。徳永隆という未知の人物に興味を抱いた俺は、自分の目で彼の事を確かめたくなったのだ。
「探るって、どうやって?」
「学校が明けてから、コクミツになってつける。猫の姿だったら怪しまれる心配はないし」
 家が葦沢町内ならば、コクミツの行動範囲なのでそれができる。尾行なんかにコクミツの姿を使うのは反則のような気がしないでもないが、たまにはそういう柔軟さがあってもいいだろう、と俺は納得する事にした。


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