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 考史郎とコクミツが出会った小波字のT字路を後にし、貝塚字を通過してやって来た、葦沢町最南端の堤字。
 パンの耳をヨツバに差し入れに行ったら、好奇心が芽生えて歩き回るようになった彼女の子猫達に、もみくたにされた。……ああ、健やかに育っているようで何よりだ。
 よろよろしながらその納屋を出た頃には、西の空の低いところに、宵の訪れを告げる明星が光っていた。
 ――定期巡回は毎日の仕事だが、毎日町内の全ての区画を回るわけではない。小さな猫の身でそれをするのは、さすがに負担が大きすぎるからだ。
 無理は、仕事を雑にする。今日は各所の班長猫達に都合良く会えたが、無理をして町中を駆け回っても気ままな性質の猫達に、そういつも思い通り会えるとは限らない。それに班長猫の話だけ聞き、流すように巡視して済ませるのではなく、なるべく一日に回るのは一、二箇所と決めて、今日島中字の商店街で人との交流を深めつつのんびり歩いたように、余裕を持ちながら細部にまで自分の目を行き届かせるよう心がける事が大切だと、俺は考えている。
 しかし今日はいつもより多く距離を駆けたので、ちょっと疲れてしまった。このまま帰ろうかと思ったが、暮れゆく空を見ていたら、涼風に吹かれながらもうちょっとだけそれを眺めていたい気分になり、俺はとある場所へと足を向けた。


 訪れた先は、河口の防波堤。河中に堤防のラインと平行に設けられており、そこと堤防の間には、十数隻の小さな漁船やボートが並べて係留され、ぷかぷかと揺れている。
 広大な河に抱かれ、空も風も遮るものがなく開放的なここは、釣りスポットとして釣り人達に好まれている場所でもある。よく猫達も訪れて釣り人と親睦を深めたりしているが、投げ釣りの針にだけは引っかけられてしまわないよう、注意が必要である。
 堤防の上からそこを見下ろすと、その防波堤には先客がいた。ブルーグレイの毛並みをしたあの後ろ姿は、ホクテンだ。
 俺は堤防の階段を降りて、コンクリートで連結する部分から防波堤へと渡る。
 ホクテンの隣まで行くと、彼は俺の顔を見て「よう」と一言だけかけ、またすぐに前へ向き直った。
 ホクテンと同じようにその場に腰を落ち着けて、西側の対岸を臨む。沈んだ夕陽の逆光に映える、遠い山脈の稜線。その影とのコントラストが美しい、明星輝く淡い朱の空を黙してしばし眺めていた俺は、ちらりとホクテンの方をうかがった。
 彼は、河の上流側に並んで架かる長い鉄道橋と道路橋の方に、目を向けている。
「……待っているのか」
 俺が話しかけると、ホクテンは目線を定めたまま、尻尾だけくるりと動かした。
「――わかってはいるんだが、何となく、な」
「……そうか」
 河を渡ってきた風が、俺達を撫でては過ぎていく。
 ホクテンには、待ち人がいる。いつ来るか、来ないかもわからない、待ち人が。
 人生も、猫生も。他者には平穏に見えて、それぞれに複雑な事情が背負われていたりするものだ。
 小さくても様々な生を受容する、葦沢町。
 町の安寧が、ここに住まう者達の心に安らぎをもたらすものであり続ける事を、俺は切に、願うばかりである。


   ***


 龍彦の家に寄り、そこで考史郎に戻って預けていた服を着た俺は、自宅のアパートに帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりー」
 ダイニングキッチンの方から、母さんの弾んだ声と焼き魚の香ばしい匂い。魚は『魚鮮』のやつかな。
 玄関から正面の自室へ向かうのに右手のそこを見やると、母さんはグリルの焼き魚を菜箸でひっくり返しつつ俺に向けて言った。
「もうすぐ夕ご飯の支度できるから、ちょっと待っててねー」
 その母さんの後ろ、まだ皿の並べられていないテーブルには、また『さくらだベーカリー』のパンが、どっさりと積み置かれていた。


 夕飯を食べて自室に戻った後、疲れていたけど中間試験が近いので少しだけでもと勉強机に向かった。教科書の導眠作用が働いてきたところで適当に切り上げ、パジャマに着替える。
 ベッドに腰かけて、目覚まし時計を明日の起床時間にセット。
 ――寝て覚めれば、またこんな調子の一日が始まる。
 人と猫とを掛け持つ毎日は、大変ではあるけど、自分なりに楽しんでやっているつもりだ。
 コクミツと考史郎、元は別個の存在でも、郷里に対し抱く心は同じ。
 双方の視点から、この町と、ここにある二つの社会を捉えて見守っていける事は、今の自分にしか持てない、稀な幸せかなと思う。
 ……さて、語りはこのくらいにして。来たる明日ために、もうそろそろ寝るとするか。
 今日は一日、付き合ってくれてありがとう。
 それじゃ、おやすみなさい。


 平々非凡な日常/終



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