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 一旦自宅に寄ってから龍彦の家にお邪魔した後、俺達は先ほど話に上った、よく行くところ――龍彦の家と同じ貝塚字にある、『鈴音の湯』を訪れた。
 昔はお互い親に伴われて来ていたけど、現在は学校から早めに帰ったりした日や休日に、こうして二人で風呂に入りに来ている。営業時間は午後四時から十時なので、四時まで龍彦の家で時間を潰し、必要最低限の風呂用品と着替えを持って、今日は一番風呂を浴びに来たわけだ。
 ……銭湯なんてじじくさいとか言ってくれるな。俺も龍彦も小さい頃からそれぞれに空手とバレーボールを習っていたんで、稽古を積んだ日にはこの銭湯で身体を流す事も多かった。だからここは俺達にとって、馴染みの深い場所なんだ。
 営業開始直後に入ったので、今、浴場には俺達以外に誰もおらず広々としている。洗い場の蛇口の前で横並びに、俺達は身体を洗っていた。
「龍彦。この後、また俺の服を頼みたいんだがいいか?」
「ああ、またこっから直接巡回に行くのか。それはいいけど、帰りに番台の梅じいさんをごまかすの、結構どきどきするんだぜ」
 梅じいさんとはここの銭湯を切り盛りする、齢八十歳の関谷梅蔵(せきや・うめぞう)じいさんの事だ。俺は風呂に入って服を脱いだついで、その服を龍彦に預けて度々この銭湯からこっそり猫の姿で出て行くのだが、俺と龍彦が二人で来て、帰りには龍彦がひとりで出て行く事を、当然ながら梅じいさんは毎回不思議に思うわけである。龍彦はじいさんの呑気で天然な性格に調子を合わせる事で、どうにかごまかしていつも帰るらしい。
「すまん、また今度何かおごるからさ。服は巡回が終わったら、お前の家へ取りに戻るよ」
 わかったよ、と返した後、龍彦はふと思い出した事を口にする。
「そういや、お前が『猫』になるのを初めて見たのはここだったな。今みたく貸し切り状態の時にさ」
「ああ、そうだっけな」
 俺が人間の『考史郎』と猫の『コクミツ』という二つの顔を持っている事は龍彦しか知らないが、それを初めてちゃんと話したのはここ、『鈴音の湯』だ。信じてもらうには実際に目の前で猫に変わり、また人に戻るところを見てもらうのがいちばん手っ取り早いと考えた俺は、姿を変える際に邪魔になる服がないこの場所を選んで、打ち明けたのだった。
「あん時は、目の前で起こった事でもなかなか信じられなかったな。……あーそうだ、前々から聞こうと思ってたんだけどよ、お前、人間の時に部分的に猫になる事はできないのか? ほら、よくあんだろ。猫耳出したり尻尾出したり、そういう萌え系の」
「できたとしてもやらねえよ、半端な事はしたくない」
 俺の否定的な返答に、龍彦は身体を洗うのに使ったタオルを桶の中でゆすぎながら肩を落とす。
「そりゃー残念だな、一度リアル猫耳を見たかったんだが」
 桶に汲んだ湯を浴び、蛇口をひねって再びその桶に湯を溜めつつ俺は龍彦に目をやる。
「……お前、そういう趣味があったのか? 俺は絶対嫌だぞ」
「相変わらず固ぇなあ。そんな体質めったにあるもんじゃないんだしよ、遊び心も大事にしようぜ」
「人の時は人、猫の時は猫。誰にも悟られないように両立させるには切り替えが肝心なんだ」
 言ってもう一杯、頭からがばりと湯をかぶる。
 そんなもんかね、と持参してきた自分のシャンプーを手に取った龍彦は、同じく頭を洗おうと俺が手にしたシャンプーに目を留めた。
「ん、お前シャンプー替えたのか……ってそれ女物じゃないか?」
「え、そうなのか?」
 言われてよくよく見てみれば、ボトルの細身で柔らかいフォルムやピンク系に統一された色遣いからして、確かに女性を対象にした品のようにも思える。
「他にハーブ入りのが見当たらなかったから、これ選んだんだけど」
 シャンプーなんて男物でも女物でもそう大差ないだろう、と俺はあまり気にせずそれで頭を洗い始めた。
「……なんでハーブ入り?」
「香りがノミダニ避けになるかと思って。梅雨時の草むらは特に怖いだろ」
 ぽかん、という音が聞こえそうな妙な間があった後。
「……あー、そう……」
 龍彦の間のびした返事は、心なし呆れたもののように聞こえた。
 人と猫とは違う。そう分別して二つの立場をきっちり使い分けているつもりなんだが、龍彦いわく、俺は人間の時でも猫の自分と混同してしまっている事があるらしい。
 ……そうなんだろうか?


 よく拭いて乾かしたつもりでも、猫になってみるといつも身体には多少の水気が残ってしまっている。猫の毛というのはどうも水の弾きが悪くて厄介だ。
 番台の下を忍び足で抜け、表に出た俺ことコクミツは、入り口の前でプルプルと身を震い、気持ち水気を払った。
「おう、コクミツじゃないか」
 声をかけてきたのは、路地から現れた一匹のオス猫。
「ススケか」
 俺と同じ黒毛だが、彼は長毛だ。大柄な身体と銅色の鋭い瞳を持つ、威風堂々とした風体のこの猫――ススケは、『鈴音の湯』の通い猫。元々は野良だが、たまたま知り合ったここの梅じいさんと馬が合ったらしく、完全な飼い猫にはならないものの、今は梅じいさんの側にいる事が多い。一緒に番台で番をする姿は、看板招き猫として町内では有名だ。
 ちなみにススケという名について少し説明すると、梅じいさんは『サスケ』と名付けたつもりでそう呼んでいるのだが、入れ歯の具合からか特にサ行の発音が悪く、聞く側にはどうしても『ススケ』としか聞こえない。加えて奇しくも通い先が銭湯であり、その黒一色の外見から『銭湯の煙突掃除でもしたようなススけた姿』を連想させるため、町の皆の間では『ススケ』という呼び名が定着したのである。
 そんないささか不名誉にも思える名前だが、寛容な性格から、ススケ自身に全く気にしている様子はない。
「何だ、風呂で洗ってもらったのか」
「ああ、毛にこびりついた砂ぼこりが気になっていたんでな」
 梅じいさんは時々、ススケだけでなく、訪れた他の猫達も浴場で洗ってくれるのだ。
「……ん? でももうのれんがかかってるじゃないか。風呂を開放している時間帯には、梅じいさんは猫を浴場に入れないはずだが……?」
 しまった、と思った俺の尻尾が後ろで膨らむ。確かに、梅じいさんが猫達を洗うのは営業時間外に限られている。
「たっ……たまたま一番に来たのが猫好きな客で、他に誰もいなかったから……今日は梅じいさんの代わりに、特別にその客が洗ってくれたんだ」
 しどろもどろしながらも、できる限り平静を装って何とか取り繕う。
「ほう、そいつは珍しい。気の良い客で良かったな」
「……ああ、ほんと良かったよ」
 納得してもらえたらしい事に内心ほっとした。
 猫達にも、俺が考史郎という人間と同一である事は隠している。こんな奇妙な事実を明かし、もし猫達がコクミツに不信を抱きでもしたら、これまでにコクミツがボス猫としてこの町で築き、守ってきたものが崩れてしまうかもしれない。それを危惧しての事だ。
 気を落ち着けたところで、俺は別の話を振る。
「ところでススケ、貝塚字の現況はどうだ」
「そうだな、近頃は、目新しい事は特に」
 言い忘れていたが、ススケはこの貝塚字の班長猫だ。風呂に関しての突っ込みは冷や汗ものだったが、これから巡回に出かける上でこうして班長猫の彼を探す手間がはぶけた事は、ありがたかった。
「そうか、何よりだ。じゃあ他の区画も回らなければならないから、俺はそろそろ行くとするよ」
「おう、ご苦労さん」
 そうしてススケと別れ、俺はボス猫コクミツとしての活動である、町内の定期巡回に出かけた。



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