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   平々非凡な日常


 気を失って、道で倒れていた。
 冬の、遅い夜明け。ようやく昇った陽が、朝もや漂う町をほの白く染め替えた頃だった。
『二度目』に呼ばれて目を開けてみると、目の前には見た事のない女の子の顔。心配して、必死に呼びかけてくれているのがわかった。
 ぱらりと、彼女の長い髪のひとふさが肩からこぼれて俺の頬にかかる。
 朦朧としながら、ああ綺麗な子だな、と思った。


 繰り返される高い電子音が、夢に滑り込んできた。
 手を伸ばし、枕元の棚で鳴り続ける目覚まし時計を止めて、それを布団の中に引っ張り込む。
 寝ぼけ眼で確認した針の位置は、午前六時。
 布団から顔を出したら、窓から射し込む光の量に目がくらんだ。
 春が過ぎ、日に日に気合いの入ってくる太陽。日中は気温が高くなりそうだ。

 ――今日は、俺と葦沢町の事をもう少し知ってもらうために、何て事ないけど変わってるかもしれない俺の一日を、紹介しようと思う。


 顔を洗い、制服に着替えてダイニングキッチンに足を運ぶと、隣の部屋の扉が開いた。中からパジャマのまま出てきたのは俺の母親、高峰清花(たかみね・きよか)。
「あーごめんね考史郎ちゃん、今日は早出の日だっけ」
「ああ、寝てていいよ母さん。夜勤から帰ったばっかだろ。適当に食べて出るから」
 言いながら冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出す。
「……そう?」
 申し訳なさそうに、母さんは下ろされたゆるいウェーブの茶髪をかいた。
 母さんの仕事は看護師だ。今年四十になったばかりで、更に無邪気で奔放な雰囲気をかもす明るさと小顔から年齢よりも若く見られるため、初対面の人に高校生の息子がいる事を話すと大抵驚かれる、なんて言ってよくころころ笑っている。
 ちなみに父さんは、数年前に母さんと離婚してしまったので今は一緒に暮らしていない。たまに会いはしてるけど。
「なら、朝食は食器棚の横のバスケットにあるからそれでお願いね」
 言われて目をやったそのバスケットの中には、様々な種類のパンがどっさりと入っていた。二人暮しの朝食用には幾分、量が多い。
「……母さん。これからの季節はカビやすいし、買い溜めはほどほどにした方がいいんじゃないかと思うんだけど」
 屈んでその中のひとつ、袋に詰められた四枚切りの食パンを手に取る。
「ああそれねー、この頃、桜田さんのサービスが良くって」
「桜田さん? ……ああ、これ『さくらだベーカリー』のパンか」
 そのパンの薄桃色したビニール袋は、確かに島中字の商店街にある、さくらだベーカリーの袋だ。
「そうなのよ。たくさんおまけつけてくれるもんだから。あ、学校にもそれ持って行けば、お昼に購買のパン買わなくても済むんじゃない?」
「……うん、まあ」
「明日はちゃんとお弁当作るから、今日はそれで勘弁してね」
 と手を合わせた後、じゃあ気をつけて行ってらっしゃーい、とにこやかに笑い、母さんは部屋の扉をぱたんと閉めた。
 牛乳パックとパンを手にした俺は、それを食べて早く出かけようと立ち上がった。


   ***


 堤字の南東、田園の只中にある敷地に白い校舎を生やす、県立葦沢高等学校。
 その校門前で、俺は風紀委員の腕章をつけて今、立っている。他九名と顧問の先生一名と一緒に、朝、登校してくる生徒達に「おはようございます」と挨拶を呼びかけるのは、風紀委員会の活動のひとつだ。
 俺はこう見えても二年ほど前まで空手をやっていたので、武道で重んじられる挨拶や礼の精神は、今も大事にしている。言葉ひとつで気持ちが引きしまるなんて、良い事じゃないか。
 ……なんて高尚で生意気と受け取られがちな思想は、滅多な事で口に出したりしないが。心得なんて、そうひけらかすものでもないし。
 だから風紀活動の一環としてこうやって態度で示す場がある事は、俺的には結構ありがたかったりする。
「おはよ」
 始業時間が近くなり生徒達の波が大きく寄せてくる中、自転車を押しながら俺にそう笑いかけ、薫風のように過ぎていったのは天瀬だった。
 ……うん、こういうささやかな楽しみもあるしな。ほんとありがたい。
 などという事はさておき、俺がこうして挨拶運動のために早出するのは、毎週火曜日と金曜日。俺は風紀委員会の他には何の部にも参加していないので、この曜日以外は平常、始業二十分くらい前に着けるよう登校している。
 部活動に参加しないのは、授業が引けた後に時間的拘束を受ける事になると、夕方から行なう『もうひとりの俺』の仕事に支障が出るから、というのが最も大きな理由だ。ただでも風紀委員の関係で帰りが遅くなる事があるし、いくつも活動を掛け持ちできるほど俺は器用じゃない。
 人と猫の両立も、なかなかに大変だ。


   ***


 そんな朝が過ぎ、始業時間になれば、普通に授業を受ける。俺の席は窓側から二列目の、後ろから三番目。ちなみに龍彦も同じクラスで、右斜め後ろの席に居たりする。


 放送委員会が校内放送で流すポップスのCDをBGMに、昼休みには昼食をとる。
 今朝母さんと話した通り、今日の俺の昼飯は自宅から持参してきたパンなわけだが。
「おいおい、どうしたんだそれ。そんなに持ってきて食い切れるのか?」
 前の席の椅子を借りて俺の机に着いた龍彦は、俺が机上に広げた、丁寧に一個ずつ袋に入れられた菓子パン八個を見てやや驚く。
「食い切れなさそうだから持ってきたんだ。うちに買い置きしてあったんだけど、傷む前に欲しい奴がいたら分けようと思って」
「お、そういう事なら遠慮なくもらっとくわ」
「サンキュな」
 言葉と同時に、四方から俺達と同様に飯の準備をしていた奴等の手がたくさん伸びてくる。あれよと言う間にパンは減っていき、気づけば自分の昼の分まで危うくなっていた。慌てて二個だけ抱え込み、それを守る。
「はは、こういう時はみんな早ぇよなあ」
 龍彦は笑いながら、片付いて広くなった机に持っていた弁当箱を置く。その横にさり気に添えられたのは、ちゃっかりキープされていた菓子パン。
「あー残念、もうなくなっちゃったの。私も欲しかったな」
 その様子を見ていたらしい生徒の一人が、教室の後ろ側にある出入り口の方から歩み寄って来た。
「牧村先輩」
 初夏の陽射しが似合いそうな、ベリーショートに近いさっぱりとした髪形の長身な彼女は、二年生の牧村里佳(まきむら・りか)先輩だ。今年度の風紀委員長を務める人なのだが、それを任された理由は、去年度の働きから行動力と求心力を認められての事だとか。
 ここで補足しておくと、葦沢高校の生徒総会は生徒会役員会、専門委員会、特別委員会で構成されていて、俺の所属する風紀委員会は専門委員会にあたる。専門委員会はどれも任期二年と定められているので、俺も先輩達と同じように、二年生になっても風紀委員を続ける事になる。
「ごはん時にごめんね高峰君。明日の放課後、広報委員会に提出する風紀委員会からの広報記事の内容をみんなで話し合いたいから、ちょっとだけ残って欲しくて。そのお知らせに来たんだ」
「明日ですか。わかりました」
「良かった。じゃあ視聴覚室を借りてあるから、明日、授業が明けたらそこへ来てね。あ、あと悪いんだけど、同じ学年にいる他の風紀委員にも伝えといてくれないかな」
 それも了解すると、牧村先輩は助かるわ、と俺の肩をぽんと叩いた。
「んじゃ、お願いね!」
 気持ちの良い笑顔を残して教室を出て行く牧村先輩を見届けた後、前に向き直ってパンの袋を開けた俺は、ふと前の龍彦が机に片肘をついたまま先輩の去った方をまだぼんやり見ている事に気づく。
「どうしたんだ」
「ん、いや。結構タイプだなと思って」
「……牧村先輩の事がか?」
 俺が目を丸くすると、龍彦もこちらに向き直って弁当を広げながらあっけらかんと言った。
「ああいう快活で引っ張ってってくれそうな人に弱いんだよなー」
「……ふうん……」
 気のない返事をしてパンをかじり始めると、俺が話に乗らなかったのがちょっと寂しかったらしく、龍彦は溜め息をついてみせた。
「……ま、お前にはわかんないか。明らかにタイプが違うもんな、お前の好――」
「言うなよ」
 すかさず龍彦の口を止める。誰が聞いているかわからないところでそう易々と秘め事を漏らされてはたまらない。
 彼女の事を思い出し、俺はちょっとばかし赤くなってしまった。ごまかすようにパンをかじり続ける。それを見て、卵焼きを口に運んだ龍彦はにまりと笑っていた。


   ***


 終業後、帰宅するため教科書を鞄に詰めている俺の背を、龍彦が後ろから叩いた。
「考史郎、一緒に帰ろうぜ」
「え。お前、部活は」
 龍彦はバレーボール部で、ほぼ毎日、部活動があるはずなんだが。
「今日は朝練だけで、放課後は休みなんだ」
 ……という事らしい。
「そうか。じゃあ、またいつもんとこ行くか?」
「お、いいな。行っとこーぜ」
 そんなわけで、鞄を閉じると俺達は同級生達と適当に挨拶を交わし、連れ立って教室を出た。



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